地理教育部会 2007年度 4月例会

日 時: 2007年4月14日(土) 

場 所: 花さき(臨時會場)2F

参加者
磯  高材(元大阪市公立学校長)   橋本九二男(元大阪府立高等学校)
米田 藤博(元大阪府立高等学校)   神吉 正雄(武庫川女子大学附属中・高等学校)
奧舍 憲雄(金蘭千里中・高等学校)  冨田 健治(相愛中・高等学校)
冨田健太郎(清風南海中・高等学校)  奈良 芳信(清風南海中・高等学校)


 「一万石大名の家臣団構成と参勤交代 ──如何に武士は貧乏であったか──」  米田 藤博 

 米田氏は長年研究されている江戸幕府下の小藩大名、旗本・御家人など実質的に幕藩体制を支えていた武士団について、残存古文書を中心に市町村史誌、各地図書館の蔵書・文献類、出版書籍など多くの参考文献を纏め、支配階級の武士は金銭面では如何に貧乏であったか、を解説された。 (発表要項:A4判11頁)

(紙面の都合で、以下項目のみとします)
  1. 軍役人数:幕府が示した標準の家臣人数に対して、各藩のの人数は藩の事情により、また石高に
    よって大きく異なっていた。
  2. 家格と職制:小藩大名の家臣は士分・足軽・中間・小者に大別できる。藩の職は、家老以下20種
    前後、幕末には多くなる傾向がある。
  3. 家禄の与え方と換算方法:名目上の支給石高の4割位が実収入とみてよい。米にも品質に差があ
    るので、実収入にも差が生じる。金・銀・銭での支給では、日常生活に使用する小銭・藩札等の両替で、商人に手数料を取られ目減りした。
  4. 「借上」「上米」「半知」:江戸中期頃から藩の財政事情が悪化してくると、家臣の家禄の「借
    上」(一部を支給しないで一時借りておいて2、3年後に渡す。約3分の1程度の借り)、後期になると「上米」(一部の支給を辞退、約40%程度返却)、幕末になると「半知」(家禄が半減、50%支給)となり、下級武士は殆ど死活問題となった。内職に励む者もいた。
  5. 陪臣:上級家臣は50石につき1人の割で家来を持つことを義務づけられていたが、藩によっては
    それ以上の人数を規定したいたところもある。自分の家禄から養うので負担も大きい。
  6. 武家屋敷:上級武士は広い敷地に間取りの多い屋敷を持つことができ、庭をとっても残った空地
    に菜園をとることができた。下級武士は二間取り住宅で、小作農程度であった。
  7. 武士は如何に貧乏であったか:上級武士は多くの家禄を貰うため、下級武士の家禄は少なくなる。
    しかし、上級武士は陪臣や下男、女中などを抱え、衣服や交際費が高額となるため、苦しい事情に代わりはない。下級武士は家禄の主食分の米を差引くと何も残らない。江戸後期以降、借上・上米・半知が行われると、中級武士で小規模自作農程度、足軽以下は小作人(水呑百姓)並みであったといえよう。
  8. 参勤交代:1万石大名の参勤交代の事例資史料が極めて少ない。入手した伊豫小松藩や多度津藩
    の事例では、参勤費用は約600両、帰国費用は約500両、在府期間1ヶ月の費用は約100両で、藩財政の4割にもなった。
 
 「出雲平野の散村の現況」  橋本九二男 
 橋本氏は、個人巡檢で訪れた日本三大散居集落の一つ出雲平野の最近の景観を、築地松を中心に、撮影写真を資料に解説された。

 出雲平野では、築地松を植え、高さ10m位に育てて整え、冬の防風に役立ててきた。最近は、道路沿いに普通の民家が建ち並ぶようになり、また築地松を持つ農家も、屋根も茅葺きから瓦葺きへ、鉄製・アルミ製サッシの採用や住宅建設工法の変化などで、風に強い家屋が出来るようになった。

 また、農業機械や自家用車の車庫の建設、住宅用家屋の増築などで築地松の一部を取り払ったり、全面的に低木塀やブロック塀等に変更する家が増えてきた。

 地元でも景観保全策をとっているが、築地松の維持管理に費用が嵩むことなど、余り乗り気でない家もあるという。 

 資料提供
磯  高材 三河国国分尼寺跡史跡公園パンフレット(豊川市)
奈良 芳信 出雲平野守る“壁”築地松(2007.02.18 産経新聞 朝刊)
米田 藤博 パイオニア第80号:位野木壽一先生追悼号、
パイオニア第79号、第61号、第60号、第59号、第58号、第56号、第53号。
(米田氏の論文が収録されている)


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