(発表要旨:A4判20頁、含クド造4頁)
米田氏は、かねてから江戸幕藩体制について研究を継続されている。各地の城下町や陣屋町を訪問して、古文書・研究文献・市町村史誌などを調査し、その都度その内容を発表してきている。今回は、表題の発表である。
- 御三家を除き、大名には五種の家格があり、江戸城中の溜間の区分や将軍拝謁について厳格な順序が存在した。家格は藩領の石高とはあまり関係が無いらしい。
- 一国以上を支配する国持大名は幕末には10家あり、対馬の宗氏以外は20万石以上の大藩で全て外様大名。
- 大身国持大名は幕末で10家あり、陸奧國や出羽國のように広い面積の國に居城を構える大藩の大名で、2家を除き外様大名。
- 準国持大名は国持大名や大身国持大名ほどの藩領を持たないが、幕末で3家あり、約10万石。
- 城主大名は原則として城郭を所有する大名で幕末で126家。但、2家は居所は城郭ではなく陣屋。
- 国主・準国主・城主が城持大名で総数149家(親藩9家、譜代90家、外様50家)。
- 城主格大名は居所は陣屋であるが、城と公的に称することができた。事情で城主大名となったものもある。幕末で19家が存在。
- 無城大名は城郭を築くことを許可されず、居所を陣屋と呼ばれる大名で、小藩大名や支藩大名で、2万石未満の所領。
- 分家大名を支藩大名といい、宗家の無嗣断絶や本藩補佐の役目を果たす。本家へ参勤する。
- 独立した支藩大名(領外分家)は、宗藩からの藩領とは別に幕府からも領地を受けた。
- 内分大名は(領内分家)のうち、分知分家は宗藩からの藩領だけだが、幕府から領地朱印=領地目録を受けた。内分分家は本家の領地朱印=領地目録の中に記載されているだけ。
- 新田大名は宗家から新田高を与えられるだけで、幕府は一応大名とは認めるが、藩領が無く、陣屋も宗家の城郭内にある。
- 支藩の支藩大名は、分家大名からさらに分家した大名。
- 万石陪臣は、大名の家臣で1万石以上の家禄を受けるが、幕府からは大名と認められない。大名から領地を与えられ、陣屋町を形成している場合が多く、幕末で70家。
- 大名格の旗本は、旗本交代寄合席表御札衆と呼ばれ、大名と同様に参勤交代の義務があったが、幕府の要職に就くため殆ど在江戸であった。規模は小さいが陣屋町を形成。
- 江戸中期の旗本・御家人は「御家人分限帳」による役職別人数では総計22,891人(人名記載7,053 人、他は与力○○騎、同心△△人)。
- 旗本と御家人を会わせて御家人とも呼ばれ、一般的には旗本の地位が高いとされるが、区別は判然とはしない。
- 旗本・御家人は与えられた禄に対し、定められた軍役人数を持たねばならず、参戦する時はその家臣を連れて行く。幕府の陪臣数は69,002人、これに直臣の旗本・御家人を合計すると91,799人となり、八万騎を超えるが、幕末頃はとても多数の家臣を抱えるゆとりはない。
※紙面の都合で以下は省略します(含クド造)。
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