地理教育部会 2007年度 11月例会

日 時: 2007年11月10日(土) 

場 所: 大阪教育大学天王寺キャンパス 中央館 5階 520教室

参加者
前田  昇(大阪教育大学名誉教授)  正木 久仁(大阪教育大学)
磯  高材(元大阪市公立学校長)   米田 藤博(元大阪府立高等学校)
奧舍 憲雄(金蘭千里中・高等学校)  冨田健太郎(清風南海中・高等学校)
奈良 芳信(清風南海中・高等学校)


 「巡見使と海辺巡見使」 米田 藤博 (發表要項:A4判11頁)

巡見使について
  1. 江戸幕府は外様大名の多くを江戸から遠く離れた西国各地に配置したため、その動向について極
    めて関心が高く、近くの譜代大名からの報告だけでなく、直轄の武士を派遣して情報収集に努めた。これが西国巡見使である。
  2. 江戸時代の巡見使は、将軍の代替わり毎に派遣され、旗本の目付役がその任に就いたようである。
    史料から3代家光からが正確と思われる。以後、12代家慶まで。13〜15代は幕末混乱期で派遣されていない。
  3. 巡見使は全国を5班に分け、西国は近畿中央部以北・山陰・山陽と巡見する一行、近畿南部・四
    国(南海道)・九州(西海道)を巡見一行があったと考えられる。天保9(1838)年四国地方を巡見した一行は、本使、副使、目付各1名と本使家臣28名、副使家臣28名、目付家臣27名の86名で、参勤交代の小大名級の人数であった。
  4. 天保9年長州藩へ来た巡見使は、石見国津和野領から長門国に入り、長門国で9泊、周防国で6
    泊して安藝国へ立ち去っている。宿泊地を辿ると、1日3里半から6里の行程で、参勤交代時に比べて、1日の行程は約半分となる。また、領内全てを廻るのではなく、通行する街道での見分である。
  5. 巡見使が領内を通る時には、本藩・支藩から案内の役人を出しているが、巡見使の質問に対する
    「問題・答えのマニュアル」を作成して、統一した答えを用意し、本陣詰諸役人にも徹底していた(吉田藩の例)。
  6. 宿泊は小さな町では寺院・庄屋を本陣・脇本陣にしたり、接待・警備に多数を動員しているので、
    旅籠が足りず、町屋に分宿させたりしている。これらの人々が移動するので、総勢500人余り、中藩の大名の参勤交代並みの行列となったようだ。また、事前の準備のための人足として多数の農民が駆り出されたり、資材提供させられたりした記録も残っている。

西国海辺巡見使
  1. 巡見使は、農山村を中心に町場などを巡回したが、海辺巡見使は漁村を主体に諸国の港などを巡
    視した。記録は殆ど残っていないが、伊豫吉田・讃岐多度津2藩の例を見ると、各浦(漁村・港)の家数、船舶数、港の場合出入船舶数、加子数、波止場の構造、高札の有無、船問屋、村の石高、浦役銭の状況など、かなり詳細である。
  2. 陸上主体の巡見使、海辺巡見使とも案内・接待に相当の気を遣っているが、案内接待役人の慰労
    もあり、提供した食事(酒・肴)の内容を詳細に記録しているのもある。長州藩の例では、12品程度を用意し、かなり盛大であったと思われる。



 資料提供
磯 高材 鷺谷 威「ひずみ集中帯と大地震の関係」SEISMO 2007年11月号
2007年11月6日奈良県中部で発生した地震の各地震度(気象庁情報より)一覧
米田藤博 関西地理学研究会『パイオニア』第81号 2007年7月
奈良芳信 寒川 旭「遺跡が予知する巨大地震」文藝春秋 2007年11月号
大和国条里推定復元図:古島敏雄『土地に刻まれた歴史』岩波新書の附図
1:50,000地形図「桜井」昭和53年2月28日発行の部分(北野高校での読図問題より)
1:25,000地形図「大和郡山」大正11年測図、昭和22年発行の部分(福井大入試問題より)


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